麻雀 それは、4人が麻雀卓を囲み、136枚の麻雀牌を駆使し
て勝敗を競う、思考の楽しみを追及したゲームである。

現在残されている文献によれば、麻雀が中国から日本に入ってきたのは1900年代の前半とされている。当時、ある新聞に連載を持っていた夏目漱石が麻雀について言及しているくだりが見受けられることからも、ほぼこれに相違ないだろう。以後、麻雀は日本でも広がりを見せ、昭和のはじめにはその最盛期を迎えた。そして、遊戯の発展とともに増えていったルールは戦後を迎えたあたりで統一の動きを見せ、やがて現代の麻雀へと至るのである。

そもそも麻雀の発祥については諸説あるが、有力なもののひとつとして、1850年代の中国・上海において、中国の伝統的な遊戯が発展したものこそが麻雀の起源だ、とした説がある。
また、その創始者は陳魚門(チンイイメン)という人物なのだという。

しかし、麻雀には知られざるもうひとつの歴史があった!!

時は1700年代後半。かつて中国の奥地に小さな都があった。そこでは役人の腐敗が進み、彼らの私服を肥やすために重い税を支払わされている農民たちが、飢えに苦しむ毎日を過ごしていた。農民たちには武力と呼べるほどのものもなく、抵抗すらままならない日々は、もはや何の希望も無いように思われた。

そんな混沌としたなか、現状を覆すべく、ひとりの男が立ち上がった。その男は、役人たちに武ではなく知によって対抗することを考え、かつてよりこの地に伝わる知を競う遊具“麻雀”を用いることとした。そして、役人たちに麻雀勝負を挑み、自分が勝った暁には税を軽減してほしい、と申し出たのだ。

もちろんこの提案は役人たちにとって何の利もない取引であり、男の提案はにべもなくあしらわれた。だが、そこで男はすかさず、自分が負ければ妹を差し出そう、と付け加えたのである。これには、役人たちの目の色が一変した。そう、男の妹は都でも評判の美女だったのだ。
かくして、役人たちと男の麻雀による勝負が開始された。だが、知を以って鳴る役人たちを相手に一介の農民が勝てるべくもない。勝負を見守る誰もが最初はそう思っていた。だが、

男の知力と運は皆の想像をはるかに上回っており、対局のことごとくで役人を圧倒、ついには勝利を収めたのである農民たちは狂喜し、あたりには歓呼の声が響き渡った。終始翻弄されつづけた役人たちは男の智慧にただ感服し、税の軽減もいさぎよく認めることとした。この地に光をもたらした男を皆は敬い称え、“麻雀において並び立つ者のない神龍のごとき偉人”という畏怖の念をこめて“雀龍”と呼ぶようになった。同時に麻雀は希望の遊具として多くの人々が楽しむ遊びともなり、“雀龍”の武勇伝とともに広まっていった。......そして数年の月日が流れた。“雀龍”の伝説はうわさとなって遠くの地にまで及んでおり、彼との勝負を望み訪ねてくる人々が後を絶たなかった。“雀龍”はそのすべてと戦い、また勝利し、伝説が真実であることを確かにしていった。負けた者の多くは“雀龍”の強さにあこがれ、彼への弟子入りを望んだ。“雀龍”は麻雀の未来のために、すぐれた麻雀の士、すなわち雀士を育成することに重きを置き、すべての弟子に試練を与えることとした。数ある試練はいずれも厳しいものだったが、それをひとつ乗り越えるたび、弟子たちには“雀龍”の名にちなんだ“朱雀”や“青龍”があしらわれた装飾品が与えられた。これらは雀士としての身分をあらわす品となり、麻雀をたしなむ者の栄誉ともなった。また、すべての試練に合格した者は“雀龍の門”を通過した偉業の証として、その名に「門」の一字を付けることが許されたのである。

そう、現代に受け継がれる麻雀の創始者、陳魚門(チンイイメン)もそのひとりだったのだ!!

さらに時は流れ、1906年(明治41年)の日本。

文龍門(ブンリュウモン)という男がいた。本名は不明である。日本人でありながら“雀龍”最後の伝承者とされ、また、日本に麻雀を伝えた真の人物であるともされている。
とはいえ、このことに関する記述はどこにも残っておらず、
よくある作り話の類として冗談めかして語られる程度のものであった。

そして2008年、現代。
いわゆる「文龍門の作り話」が真実であったことを裏付けるか
のような衝撃的な文書が、某所にて発見された。
そこにはこう記してあった。

中国麻雀の歴史を秘めた“雀龍伝説”はいま、百年の眠りから覚め、この地“日本”で甦る!