小説
気功到天コンミョン:葛藤
イ・チャソン
イ・ウヒ

幼い頃、少女は母親の言うことを聞かなかった。


女手ひとつで子を育てていた母は、自分の娘とあまり遊んでやれなかった。そのため少女は、母親と一緒に外出する日があると嬉しそうにあちこち飛び回りいたずらをしていた。その度に少女の母親は駆け回って少女を捕まえようとしたが、結局疲れて果ててしまい言葉で少女に言い聞かせていた。

「あんまりはしゃいじゃだめよ」
「静かにしてなさい」
「大人しくしなきゃダメでしょ?」

母親が言うことはその時々で違っていたが、最後の言葉はいつも同じだった。その言葉が何を意味するのか分からなかったが、母親の表情と口調からなにか重いものを感じ取ることはできたので、少女はそれを聞いたらいたずらをやめるようにしていた。


「どうか、あの方に見つかりませんように…」

*

少女がその言葉の意味を知ったのは、ある出来事が起きてからだった。

その日は市場に行く日だった。好奇心旺盛で利口な少女は初めて見るものに対して踊る心を抑えられず、あれこれ手に取っていた。その日は市場が見慣れないもので溢れかえっていたので、少女はいつも以上にわくわくしていた。
目一杯おめかしをした少女は、ある一人の男を見つけた。彼は他の人よりも頭一つ高く、すらっとした背格好をしていたため、人々でごった返している中でも簡単に見つけることができた。

少女はうきうきした様子で走り出した。一足遅れて気づいた母親は手を伸ばして少女を捕まえようとしたが、いつも以上に溢れかえっていた人波に飲まれて捕まえることができなかった。そのおかげで、いや、そのせいで少女は男の手を握ってしまった。

「お父さん!」

満面の笑顔を浮かべて顔をあげた少女の目に男の顔が映った。その瞬間、少女は掴んでいた手を放してしまった。男が少女をまるで汚いものを見るかのような目つきで見ていたからだ。

「申し訳ありません。どうかお許しを…」

やっと追いついた少女の母親はとっさに少女を抱き寄せて言った。母親は少女が男の視界に入らないようにぎゅっと自分の胸の中に引き寄せた。

「私に恥をかかせるつもりか!」
「いいえ、どうかお許しください…」
「二度とこんな真似はさせるな!」
「申し訳ありません、申し訳ありません…」

男は気に食わないような目つきで母親と少女を一瞥し、踵を返して消えていった。母親は男の姿が消えた後も顔を下げて「申し訳ありません」と言い続けていた。

*

その日の出来事以降、少女はまるで別人となった。


いつも笑っていた少女はその日から笑わなくなった。口数も以前より少なくなった。甘えたい年頃ではあったが甘えることはなくなった。かわりに、あることをするようになった。時折、少女は母親のもとへと走っていき、何も言わずに母親を抱きしめるようになった。
はじめは少女の行動に驚いていた母親だったが、何度か繰り返されるうちに慣れて、何も聞かずただ静かに少女を抱きしめるようになった。

「お母さんは私のお母さんだよね?」
「そうよ」
「お母さんは私を捨てないでね」
「そんなことはしないわ」
「ずっと一緒だよね?」
「ずっと一緒よ…」

そうして二人の母娘は互いに慰め合い、手を取り合って暮らしていった。
少女はこれから母親と二人きりで…永遠に暮らしていけると考えていた。

しかし、二人の時間はそう長くは続かなかった。

*

その日、少女の母親は帰りが遅かった。


女の身で、しかも卑しい身分の出であった少女の母親にできることは多くはなかった。それでも彼女は遅くまで子どものことを考えながら早く家に帰れるように努力していた。しかしその日は、太陽が沈んだ後になっても彼女は帰ってこなかった。

帰ってくる途中で山賊や野獣に襲われたのかもしれない。濁気に侵された魔族の手によって命を落としたのかもしれない。足を滑らせて崖から落ちたのかもしれない。突然氾濫した川の水に飲み込まれたのかもしれない。

だが村の住民は誰も少女の母親を探そうとしなかった。ただ、少女だけが暗い村の中で母親を探しに叫びながら駆け巡るだけだった。しかし夜が明けても母親は帰ってくることはなかった。その日から少女は一人で生きることになった。

それからひと月。
初めてあの男が少女の家を訪ねてきた。

***

「どこの子どもですか?」
「お前が気にする必要はない」


自分がお父さんと呼び、そして自分を冷たくあしらった男の手に引かれて到玄門に入った少女が最初に出会ったのは自分と同じような年頃の少年であった。少年は何か聞きたそうな様子だったが、少年の、そして少女の父である男はそれを無視して少女に気功牌を投げた。

「取れ」

少女はその日から武術を習い始めた。荷をほどく前から始まった修練は手荒く過酷なものだったが、少女は黙々とその教えを受けていった。どうせあの家にいても、いつまで持つか分からなかっただろう。悪いやつらの手に渡って酷い仕打ちを受け、どこかに売り飛ばされていたかもしれない。そうなるよりもましだと思って修練に邁進していった。

そのおかげで少女の武術の腕は恐ろしいほどの勢いで成長していった。男は最後まで認めようとはしなかったが、少女の才能は彼女に彼自身の血が流れていることを証明していた。

いつの間にか時間は過ぎていった。
幼かった少女は大人になり、コンミョンという名で呼ばれることが多くなった。そして気功到天という別名を得たその日、彼女の父が再び訪ねてきた。

*

「私に門派の代表になれと仰ったのですか?」

コンミョンは今聞いた言葉を理解できなかった。父は一度も自分を我が子として認めてくれなかった。しかし今になって何故…

「…八部器才ですか?」

コンミョンの問いに彼は口を閉ざした。
八部器才の役割は魔皇と相対する器を探すこと。そして器を探した後に待ち受けている八部器才の運命は…

「そのために、お前をここに連れてきた」

沈黙を貫いていた男が吐き出すように答えた。

次の日、コンミョンは八部器才になるために用意された到玄門の代表の座を譲り受け、発った。その日から彼女が彼に会うことは二度となかった。

***

お父さん。
私は今改めてあなたをお父さんと呼んでみます。
あなたは私にお父さんと呼ぶことを禁じてきました。
私のお母さんもそれを甘んじて受けていました。
あなたをお父さんと呼べるのは正妻から生まれた息子だけですから。

妾の子として生まれ育ったことについて今まで色々と考えてきました。
生まれてこなければよかったと思ったこともありました。
お父さんの娘として生まれてきた自分自身を恨んだこともありました。

自分が八部器才になるために生まれてきたと知ったときはお父さんを恨みました。
こんな命などいつ捨てても構わないと思っていました。

でも、今はもうそんなことは思っていません。
濁気に侵され、闇に立ち向かわなければならない世の中で
生き抜けるようにしてくれたことに感謝すら覚えています。

明日はカムイ・マトウが予言した日から一週間が経ちます。
彼の占いはいつも一週間遅れるので、おそらく占いに出ていた私の死は明日になるでしょう。
八部器才になったことを後悔はしていません。
少しでもあなたに愛されたいという理由で八部器才になったのは愚かだと思っていますが
そのおかげで彼らに出会え、
そして私が存在する意義について知れたので感謝しています。

今日手紙を書いたのはそのためです。
私は自分の選択が正しかったと思っています。
だからお父さんの選択も正しかったと信じたいです。

どうかお体に気をつけて。
弟のナムグン・ソンジェにもよろしく伝えてください…

*

「おい、ちょっと外に出てみなよ」

コンミョンは外から聞こえるイソ・オラクの声を聞いて筆を置いた。

「どうした。何かあったのか?」
「まあ、ちょっと見てみろって」

コンミョンはイソ・オラクの指先を辿って上を向いた。彼が指差した先には、真っ白な光の糸で紡がれたような光の帳が夜空を彩っていた。

思いもよらない絶景に、コンミョンは魂を奪われたかのように見とれていた。

「イソ・オラクのおかげで良いものが見れたな」
普段は無口なコンマも口を開いた。イソ・オラクは楽しそうに返した。

「年寄りみたいに下を向いてるよりも、上を向いてたほうがいいだろう?」
「年寄りですって?そんな、ひどい!」

その言葉にカムイ・マトウが続いた。そしていつの間にか八部器才能が各々声をあげ始めた。

「何をいまさら。年寄りよりももっと酷い言葉をさんざん聞いてきたじゃないか」
「とにかく頑固なのは認めてもらわんといかんな」
「頑固ですって!僕は…」

コンミョンは八部器才が小競り合う姿を見て人知れず静かに、そして温かい笑みを浮かべた。

「八部器才になってよかった」

コンミョンは再び空を見上げた。暗い夜空を美しい光で彩る空は今まで見てきたどんな風景よりも美しかった。彼女はその風景を目に収めようと大きく目を見開いた。コンミョンの瞳には虹色の光が溢れていた。

-終-